特攻突入を見届け続けた歴戦の戦闘機乗りが生涯を捧げた「慰霊の旅」

二度と遺族をつくってはならない

神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家) によるストーリー
2021.02.14 https://gendai.media/articles/-/80206?imp=0

今年1月26日、千葉県大多喜町の水田の地中から、零戦の破片が発見されたとのニュースが報じられた。昭和20年8月15日、終戦を告げる玉音放送の当日に墜落した機体とみられる。今回の発見は、その日、戦死した搭乗員の遺族の積年の思いを汲んだ男性が、執念の捜索活動の結果、睦沢町立歴史民俗資料館の協力を得て実現したのだという。
戦後76年を経ても、戦った当事者や戦没者の遺族にとって戦争はまだ終わっていない。筆者が出会った歴戦の零戦パイロットのなかにも、後半生を亡き戦友や遺族のために捧げ、その命が尽きるまで慰霊行脚を続けた人がいた。角田和男中尉である。

直掩機として爆装機の突入を見届け続ける

いまから8年前の2013年2月14日、一人の元零戦搭乗員が静かにその生涯を閉じた。

角田(つのだ)和男、享年94。通夜は2月17日、告別式は18日、いずれも茨城県かすみがうら市の「トモエホール」で執り行われた。

ふつう、この年齢になると同世代の友人のほとんどが物故されており、葬送は寂しいものになりがちである。だが、親族はもとより、かつての戦友、遺族、著書や慰霊祭を通じて出会った人たち、取材したテレビ、ラジオの番組スタッフなど、交通不便な場所にもかかわらず斎場いっぱいの人が参列し、生前の人徳がしのばれた。軍艦旗に覆われた棺は、遠方から駆けつけた元神風特攻隊員の荒井敏雄、岩倉勇、井上廣治、長田利平らにも見送られ、永遠の旅路についた。

角田がなぜ、これほど幅広い人たちに慕われたか――それは、戦時中、誰よりも危険な任務に進んでつきながら奇跡的に生還した経歴もさることながら、自分のことはつねに二の次、人を思いやる純朴で真心のこもった人柄と、戦死した同僚や部下の慰霊行脚に後半生を捧げた、その生き方が多くの人に感銘を与えたからだった。

角田は大正7(1918)年、千葉県に、小作農の次男として生まれた。当時の家族制度では、家を継ぐのは長男だから、次男にはいずれ居場所がなくなる。だが、世界恐慌後の不景気の当時、就職のあてもない。そこで、海軍を志願すれば兵から累進して一生働けるかもしれないと思い、難関の海軍予科練習生(予科練)を受験。昭和9(1934)年、五期生として横須賀海軍航空隊に入隊し、3年間の基礎教育を経て飛行練習生となり、戦闘機乗りとなった。


昭和13年5月、下士官(三等航空兵曹-昭和16年5月までは「飛行兵曹」ではなく「航空兵曹」)に任官。左より角田和男、中瀬正幸、杉尾茂雄の同期生と、教員・山口弘行一空曹 ©現代ビジネス

空に憧れたわけでも、国のために働きたいと思ったわけでもなかったが、いわば口減らしのために海軍に入ったのだ。支那事変(日中戦争)での初陣以来、ラバウル、硫黄島、フィリピンと激戦地を転戦し、多数の敵機を撃墜、最後は特攻隊員となって、直掩機(爆装特攻機を護衛し、その戦果を確認する)として20回もの特攻出撃を重ねた、日本海軍屈指の歴戦のパイロットだった。


昭和17年末頃、ラバウル基地にて。左より角田和男飛曹長、大槻進二飛曹、明慶幡五郎飛長 ©現代ビジネス

昭和19(1944)年10月。第二五二海軍航空隊の一員として、米軍の侵攻を迎え撃つべくフィリピンに進出していた角田は、同月30日、セブ基地指揮官の中島正少佐から、突然の特攻隊直掩命令を受けた。のちに「葉桜隊」と名づけられたこの特攻隊は二隊に分かれ、それぞれ3機の爆装特攻機に2機の直掩機がつけられ、さらに敵戦闘機を引きつけるための制空隊として2機が先行した。機種は全て零戦である。角田は、山下憲行一飛曹、広田幸宜一飛曹、櫻森文雄飛長(飛行兵長)の3機の直掩にあたることになった。

中島少佐の命令は、

「直掩機は敵機の攻撃を受けても反撃はいっさいしてはならぬ。爆装隊の盾となって弾丸を受け、敵機の攻撃を阻止すること。戦果を確認したならば帰投してよろしい。制空隊も、突入を確認したなら離脱帰投してよろしい。もし、離脱困難の場合は最後まで戦闘を続行すること」

という、鬼神のような厳しいものであった。

「昼食に配られた稲荷寿司の缶詰を、出発前に食べてみたら、そのまずいこと。貴重品の缶詰で、ほんとうはうまいはずなんです。でも、ぼそぼそで味も何も感じられなかった。しかし若い隊員たちは、じつにうまそうに、まるで遠足に行った小学生のように嬉々として立ち食いしている。私は、兵から累進した特務少尉ともあろう者が、この期におよんで弁当を食い残したとあっては恥だと思い、サイダーで流し込んで形だけは悠々と平らげました。まったく、砂を噛む思いとはこのことです。あの若者たちには遠く及ばない、と思いました」

出撃後、もう1機の直掩機がエンジン故障で引き返す。ただ1機で3機を護ることになった角田は、敵戦闘機に遭えば、直掩機が1機でも2機でも死ぬことには変わりはない、と覚悟を決めた。午後2時30分、スルアン島の東方150浬(カイリ)の地点で、空母3隻を主力とする敵機動部隊を発見。角田は翼をバンク(左右に傾ける動作)して、突撃を下令した。爆装の3機は編隊を解き、全速で敵艦に向かった。幸い、艦隊上空に敵戦闘機の姿は見えない。

「操縦席の隊員の表情までは見えませんでしたが、全力で突入する気魄に全く差異は見られませんでした。突入といっても、零戦は空戦用にできているので、急降下すると機首が浮き上がってしまい、また高速になると舵が重く鈍くなるので正確にぶつかるのはむずかしい。私には、彼らの苦労が泣きたいほどよくわかりました。

それでも、中型空母に向かった一番機・山下憲行一飛曹機は、その前部飛行甲板に命中、大きな爆煙が上がりました。二番機・広田幸宜一飛曹機は、戦艦の煙突のすぐ後ろに突入、三番機・櫻森文雄飛長は、一番機のぶつかった穴を狙いましたが、この頃になってようやく猛烈になった防禦砲火に被弾、完全に大きな火の玉になりながらも空母飛行甲板の後部に命中、さらに大きな爆発の火焔を上げました。まさに人間業とは思えない、ものすごい精神力でした」


昭和19年10月30日、葉桜隊の突入を受け、炎上する米空母「ベローウッド」(左)と「フランクリン」(右)。角田氏は上空よりこの状況をつぶさに見ていた ©現代ビジネス


昭和19年10月30日、葉桜隊の突入を受け炎上する米空母「ベローウッド」より「フランクリン」を望む ©現代ビジネス

数分後、もう一隊の崎田清一飛曹機はいまだ沈まぬ敵空母を見て、その飛行甲板中央に突入。山澤貞勝一飛曹機、鈴木鐘一飛長機は別の小型空母に命中、大爆発した。制空隊の2機、新井康平上飛曹機、大川善雄一飛曹機は、敵戦闘機10数機を艦隊の東北方に引きつけて空戦を繰り広げたが、2機とも還らなかった。いずれも20歳前後の若者で、とくに櫻森飛長はまだ18歳になったばかりの少年だった。


昭和19年10月30日、レイテ島沖の米機動部隊に突入、戦死した神風特別攻撃隊葉桜隊隊員。上段左より制空隊の新井康平上飛曹、大川善雄一飛曹、爆装隊の山下憲行一飛曹、広田幸宜一飛曹。下段左より櫻森文雄飛長、崎田清一飛曹、山澤貞勝一飛曹、鈴木鐘一飛長 ©現代ビジネス

葉桜隊が突入した米空母は「フランクリン」と「ベロー・ウッド」で、いずれも大きな損傷を被り、両艦あわせて148名の乗組員が戦死、または行方不明となった。

特攻出撃前夜に見た若き搭乗員たちの素顔

その夜、セブ基地にほど近い士官宿舎では、中島少佐の音頭とりで「天皇陛下万歳」三唱が繰り返され、戦果を祝う宴が催された。ビールの栓が抜かれ、乾杯が行われ、士官たちの間で賑やかに話がはずむ。だが、下座の片隅に控えていた角田は、昼間見たばかりの特攻機突入の光景が眼の底に焼きついていて、笑う気分にはとてもなれなかった。

いたたまれない思いで宴席を抜け出し、暗闇の坂道を登って、椰子の葉を葺いた掘っ立て小屋のような搭乗員宿舎の入口に近づいたとき、突然、飛び出してきた者に大手を広げて止められた。

「ここは士官の来るところではありません」

声の主は、倉田信高上飛曹であった。角田の前任地・厚木海軍航空隊では、直属の部下だった搭乗員である。

「なんだ、倉田じゃないか。どうしたんだ」

角田の声に倉田上飛曹も気づいて、

「あっ、分隊士(角田の職名)ですか。分隊士ならいいんですが、士官が来たら止めるようにといわれ、ここで番をしていたものですから」

士官に搭乗員室を見せたくないのだという。ドアを開けてみると、電灯もなく、廃油を灯した空缶が3~4個置かれているだけの薄暗い部屋の正面に、ポツンと10名ばかりが土間に敷いた板の上であぐらをかいているのが見えた。無表情のままこちらを見つめる目に、角田はふと鬼気迫るものを感じた。

倉田上飛曹によると、正面にあぐらをかいているのは特攻隊員で、隅にかたまっているのはその他の搭乗員だという。

その日、喜び勇んだ様子で出撃していった搭乗員たちも、昨夜はこのようであった。目をつぶるのが怖くて、ほんとうに眠くなるまであのように起きている。他の搭乗員も遠慮して、ああして一緒に起きている、との説明だった。

「驚きました。今日のあの悠々たる態度、嬉々とした笑顔。あれが作られたものであるなら、彼らはいかなる名優にも劣らない。しかし、昼の顔も夜の顔も、どちらも真実であったかもしれません」

と、角田は回想する。

11月6日、セブ基地よりルソン島クラーク・フィールドのマバラカット基地へ零戦4機の空輸を命じられた角田は、飛行中にエンジンが故障、列機(僚機)を連れてマニラのニコルス飛行場に不時着した。着陸すると、

「飛行機は当基地に置いて、陸路マバラカットまで帰るように。ただし、当基地で編成中の特攻隊に1名欠員が出たから、このなかから1名選抜して、特攻隊員として残すように」

と、第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将じきじきの命令が伝えられる。このなかから1名残せ、と言われれば自分が残るしかないと、角田は肚を決めた。そして、角田の到着を待っていたかのように司令部の前庭で行われた第三神風特別攻撃隊梅花隊、聖武隊の命名式に臨んだ。突然のことに頭のなかは真っ白になって、緊張するばかりだった。


昭和19年11月6日、正式に特攻隊員を命じられた直後の角田和男少尉 ©現代ビジネス

整列した搭乗員は11名。その正面にずらりと並んだ将官、参謀の数はざっと見ても30人をゆうに超えるだろう。死地に赴く搭乗員よりも命ずる側のほうが多い、頭でっかちの海軍の末期的症状が、はっきりと現れていた。角田は、

「ほんとうに1機が1艦にぶつかれば戦争に勝てると思うのか、全機が命中しても、残るのは敵の艦船だということぐらいわかるだろうに」

と思った。が、思ってもそれを口に出せないのが軍隊である。しかし、そんな角田のもやもやとした気分は、ほどなく吹き飛ぶことになった。

「大西中将は訓示のあと、緑の美しい芝生の上で、目に沁みるような白布に覆われた、長い机を前に並んだ搭乗員たちの顔を、右端に立った隊長・尾辻是清中尉から、閲兵式のように順に見て回られました。そして、私の前では、特に私の右手を両手で包むように握り、食い入るように目をするどく見つめて、『頼んだぞ』と、気魄のこもった声でひと言、言われました。大きな、温かい手でした」

大西中将は、昭和9年から11年にかけ、角田が予科練時代の横須賀海軍航空隊副長兼教頭、15年、漢口の第十二航空隊にいたときも、聯合航空隊司令官として角田の上官だった。
「その大西中将に、『やれ』という命令じゃなく『頼んだぞ』と言われた。私は中将の位がそれほど偉いとは思いませんでしたが、頼む、と言われたことで心のなかがカーッと熱くなるのを感じた。その瞬間、これまで抱いてきた不平、不満、疑問が全て消し飛んでしまい、肚が決まりました」

梅花隊6名、聖武隊5名は、ともに尾辻是清中尉の指揮下に入る。角田は、直掩機4機の指揮官に決まった。11月11日、レイテ湾東方に敵機動部隊発見との報告が入る。出撃命令がくだり、角田たち梅花隊は、中央分離帯のグリーンベルトを外して臨時の滑走路として使われていたマニラ湾岸道路から発進した。

「いよいよ離陸というとき、毎日新聞社の新名(しんみょう)丈夫さんが片膝をついて、カメラを構えて私のほうを狙っているのがわかりました。それを見て、ああ、ここでニッコリ、と思ったけれど、顔がこわばってしまって私は笑えませんでしたよ。ところが、若い搭乗員でニッコリ笑って出て行くのがいる。すごいと思いましたね」


昭和19年11月11日、マニラ湾岸道路から出撃する梅花隊、聖武隊の両特攻隊。先頭が角田少尉の搭乗する零戦五二型。海軍報道班員で毎日新聞記者の新名丈夫氏が撮影した ©現代ビジネス

11月下旬のある日、マバラカットからダバオへ零戦4機を空輸することになり、角田がその指揮官に選ばれた。ダバオでは、フィリピン南部の航空基地を統括する第六十一航空戦隊司令官・上野敬三中将、マニラの司令部から派遣されていた第一航空艦隊参謀長・小田原俊彦大佐、六十一航戦先任参謀・誉田守中佐、そして、第二〇三海軍航空隊の漆山睦夫大尉らがいて、その夜、角田たち3名(4機のうち1機は故障で途中離脱)の歓迎会を催してくれた。

上野中将は、角田が飛行練習生の頃の霞ヶ浦海軍航空隊副長、のちに乗組んだ空母「蒼龍」の艦長だった。小田原大佐は昭和16年、角田が筑波海軍航空隊で教員をしていたとき、計器飛行のやり方を一から教えてくれた教官である。誉田中佐も、昭和18年、角田が厚木海軍航空隊で教官を務めたときの整備長で、いずれも縁の深い人たちだった。角田の列機は、辻口静夫一飛曹、鈴村善一二飛曹の2名である。

宴も半ばの頃、小田原参謀長が、

「皆は特攻の趣旨はよく聞かされてるんだろうな」

と切り出した。

「聞きましたがよくわかりませんでした」

角田が答えると、小田原大佐は、

「教え子が、妻子をも捨てて特攻をかけてくれようとしているのに、黙り続けていることはできない」

と、大西中将から「他言無用」と言われていたという、特攻の真意を語り始めた。その話を要約すれば、特攻は「フィリピンを最後の戦場にし、天皇陛下に戦争終結のご聖断を仰ぎ、講和を結ぶための最後の手段である」ということだった――。

ダバオ基地からは数次の出撃を繰り返したが、いずれも突入の機会を得ず、空しく帰投を繰り返した。あるとき、敵戦艦部隊を発見、猛烈な対空砲火を浴びたことがある。鈴村二飛曹がスッと前に出てきて角田機の横に並ぶと、下を指差して突っ込む合図をしてきた。

「が、そのときの爆装機は、250キロ爆弾を積めないおんぼろの一号戦(零戦二一型)で、搭載していたのは敵輸送船に向けての小さな60キロ爆弾2発。これでは戦艦にぶつかってもへこみもしないだろうと思ってやめさせました。私の顔色ひとつ見誤っても突っ込んでいきそうで、ひやひやしました。さまざまな場面で、鈴村の豪胆さには驚かされることが多かったですね」

特攻突入する瞬間の搭乗員の心情

昭和20(1945)年1月7日。この頃にはフィリピン戦の帰趨はほぼ決し、航空部隊も壊滅状態になって、翼を失った生き残り搭乗員たちは台湾に引き揚げることになった。クラーク・フィールドのバンバン基地から迎えの輸送機が来るルソン島北部のツゲガラオ基地までは、直線距離で約300キロ、歩く距離はその倍にはなる。制空権を敵に奪われ、日中は行軍できないので、行軍するのはもっぱら夜間である。途中、ゲリラの襲撃を受け、味方の誤射で命を落した搭乗員もいた。

角田が一緒に歩いた搭乗員のなかに、練習生の頃から実戦部隊に出るまで同じ航空隊にいた岡部健二飛曹長がいる。開戦以来、空母「翔鶴」零戦隊の一員として数々の空戦の場数を踏んできた29歳の岡部は、「特攻反対」を公言してはばからなかった。岡部は、大きな布袋にいっぱいの荷物を背負い、それを宿営のたびに広げてみんなに見せびらかす。荷物の中身は、シンガポールで買ったという女性用のハイヒール、香水、化粧品など。全て内地で待つ妻への土産であった。

「俺は死なない。かあちゃんにこれを持って帰ってやるんだ」

岡部は言い、角田にも、

「角さん、特攻なんかやめちゃいなさいよ。ぶつかったら死ぬんだよ。戦闘機乗りは死んだら負けだよ」

と、特攻を思いとどまらせようとした。気持ちはありがたいが、一度特攻編成された以上、角田が自分の一存でそこから抜けることはできない。

行軍の途中、鈴村善一二飛曹が、いつも角田に影のように付き従っていた。鈴村は、角田に好物の酒を飲ませようと、自分の飛行服の下のシャツを脱いで裸となり、それを現地人の一升ほどの椰子(やし)酒と交換して届けてくれたりもした。

――だが、18日間にもおよぶ苦しい徒歩行軍の末、やっとの思いでフィリピンを脱出し、台湾に到着した搭乗員たちを待っていたのは、新たな特攻部隊への編入命令だった。

昭和20年2月5日、特攻専門の航空隊として第二〇五海軍航空隊が編成され、フィリピンから還った零戦搭乗員のうち103名が、否応なしにそこへ組み入れられたのだ。二〇五空の特攻隊は「大義隊」と呼ばれることになった。


昭和20年3月、台湾で出撃待機中の大義隊隊員。前列左より鈴村善一二飛曹、高塚儀男二飛曹、藤井潔二飛曹、磯部義明二飛曹、永田正司二飛曹。後列左より常井忠温上飛曹、村上忠広中尉、角田和男少尉、小林友一上飛曹 ©現代ビジネス

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大義隊のなかでもっとも搭乗歴の古い角田(5月1日中尉進級)は、ベテランなるがゆえに爆装は命じられず、直掩機として、仲間や部下たちの体当りを見届ける辛く非情な出撃を重ねた。


大義隊の出撃前の訓示を行う、二〇五空司令・玉井浅一中佐(台上の人物) ©現代ビジネス

5月4日には第十七大義隊として出撃し、谷本逸司中尉、常井忠温上飛曹、鉢村敏英一飛曹、近藤親登二飛曹の4機が敵空母「フォーミダブル」「インドミタブル」に突入するのを確認している。


昭和20年5月4日、第十七大義隊の突入を受けた英空母「フォーミタブル」。角田氏がその突入を確認した ©現代ビジネス

敵艦にまさに突入するときの特攻隊員の心情は想像するしかない。だが、角田には、自らの体験に照らしてのある確信があった。それは、昭和18年、角田が五八二空に属しソロモンで戦っていたときのこと。

「輸送船団の上空直衛をしているとき、爆弾を積んだグラマンF4Fが20数機で攻撃に来たのに列機がほかの敵機を深追いして、味方船団上空には私1機しかいなくなったことがありました。爆弾を命中させないためには、敵の注意を全部、私に向けさせなければ、そう思って、単機で下から突っ込んで行った。すると案の定、ガンガン撃ってきました。被弾すると、エンジンの爆音の中でも聞こえるぐらい大きな音がするんです。

――撃たれたときは嬉しかったですね、よし、これで俺の作戦は成功したと。射撃しながら爆撃の照準はできませんから、輸送船には1発の爆弾も当たらなかった。それを見て、フワーッと胸がふくらむ思いがしました。

私は、胸がふくらむ思いを経験したのはそのときだけでしたが、特攻隊員たちも、命中した人はみんな、同じ気持ちだったろうと思うんです。それまでは怖れて体を固くしてるでしょうが、よし、これで命中するぞと、何秒か前にはわかると思います。そのときはおそらく胸をふくらませたんじゃないか。それが自分の経験からして、ひとつの慰めになるんです。そう思わなきゃいられないですよ」

8月13日、台湾・宜蘭(ぎらん)基地にいた角田に、いよいよ爆装特攻の命がくだる。高雄警部府の命令で、台湾各地と石垣島、宮古島の日本海軍航空基地に残存する全兵力をもって、8月15日に沖縄沖の敵艦隊に体当り攻撃をかける「魁(さきがけ)作戦」が発動されたのだ。

15日の朝、エンジンの試運転を行い、搭乗員が機上で待機しているとき、司令部から、「出撃待テ」の指令が届いた。午後になって、うやむやのうちに出撃は中止されることになった。角田が終戦を知ったのは、数日後のことだった。

「正直言って、ああよかったと思うと同時に、どうしてもっと早く止めてくれなかったんだと思いましたね。逃げようとも生き残ろうとも思いませんが、早くやめなくちゃ大変だなあとは、ずっと思っていましたから」


昭和20年8月、戦争が終わり、生き残った大義隊の特攻隊員全員で撮影した記念写真。2列め中央が角田和男中尉 ©現代ビジネス


終戦後、二度と着ることのない飛行服姿でカメラにおさまった角田中尉 ©現代ビジネス

戦友たちの最期を伝えに遺族の元へ

昭和20年暮れ、角田は、ほかの隊員たちとともに、すし詰めの小型海防艦に乗せられ、内地に帰ってきた。鹿児島に上陸したが、一面の焼野原に驚いたという。

「復員列車に乗せられて、広島駅に停車すると、ここも一面の焦土でした。でも、原爆の跡は百年は草木も生えないと聞かされていていましたが、瓦礫を片づけた後に、ところどころに蒔かれた麦の芽の青さが目に沁みて、救われたような気持ちになりました。生きてさえいればなんとか暮らせるのか、と思いました」

角田は、昭和21(1946)年元旦、房総半島の故郷に着いた。これからは自分が生きてゆくための戦いが始まる。まずは生家の農作業の手伝いをしながら、職を探した。

そんなある日、角田はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領政策を聞かされて驚いたという。

「財閥解体、農地解放。昭和11年の二・二六事件で、蹶起部隊の青年将校が目指していたことと同じじゃないかと。私は貧しい農家の出ですから、二・二六の理念には共感する部分が多かったんです。それで、彼らがやろうとしていたことをアメリカが実現させてくれて、これは一体どうなってるんだ、と思いました。俺たちは何のために戦争してたんだろうと思って、心底がっかりしましたよ」

復員した角田は、昭和21年暮れ、茨城県の開拓地に入植した。自分で建てたわずか7坪ほどの家に、妻と3人の子供、そして母親と7人の家族が暮らしながら、火山性灰土の酸性土壌との戦いが続いた。自衛隊が発足すると再三、パイロットとして入隊の要請を受けたが、

「二度と飛行機の操縦はするまい」

と、断り続けている。

日本が高度成長期に入りつつあった昭和30(1955)年頃からは、農作業の合間に東京・北千住のメッキ工場に季節労働者として通うようになった。農繁期は農業に専念し、農閑期には毎朝4時に起き、牛の飼料の草刈をして6時の汽車で北千住に出、工場で残業をして夜10時に帰ってくるという生活で、文字どおり寝食を忘れて働き通しに働いた。

しかし、その間も戦死した人たちのことは頭を離れることなく、常磐線に乗って往復4時間、立ちっぱなしの満員電車のなかで、1人1人の若い顔やその最期を思い出しては涙が溢れ、周囲の人に気づかれないよう、ハンカチでそっと目を押さえたりしたという。昭和39(1964)年、念願の自宅を新築した頃からは、戦友会にも参加することができるようにもなった。ところが、ようやく生活も落ちついてきた昭和44(1969)年、妻・くま子が急逝する。

「家内は百姓の家の生まれでしたから、私よりも仕事ができるぐらいでした。長女を嫁に出して、長男が大学を出て就職して、跡を取ってくれた次男は、私と一緒に出稼ぎしながら農業をやって、末っ子も銀行に就職が決まった。ほっとしたのもつかの間、その秋に脳溢血でぽっくりと逝ってしまいました。過労がたたったんでしょうね……」

妻の死を転機として、角田は戦友たちの慰霊の旅をはじめた。

まずは遺族を探そうと、時間を見つけては早朝から厚生省を訪れた。開館と同時に戦死者名簿を出してもらい、本籍地を確認し、昼食も抜いて閉館まで筆記した。防衛庁の図書館にもしばしば出かけた。戦死者の本籍が判明するたび手紙を出したが、返事がなかったり、宛先不明で返ってくることも多かった。

昭和49(1974)年、角田は、かつての列機・鈴村善一から、

「宮崎県の同期生・櫻森文雄飛長のお墓参りに行きたいが、それには体当りを直接見届けた分隊士に説明してもらうのがいちばんと思います。遺族の前では話しにくいでしょうが、当時の状況は私からもよく話しますから、ぜひ同行してください」

と頼まれた。角田が開拓農家で苦労していることは鈴村もよく知っている。名古屋市内で金属加工の町工場を営む鈴村もけっして楽な生活ではなかったが、必死に働いて得た私財を、戦死した戦友や遺族のために惜しげもなく注ぎ込んでいる。鈴村は言った。

「費用が大変でしょうが、全部私が持つと言っては失礼ですから、名古屋駅までは自費で来てください。あとは旅費、宿泊費など帰宅するまで一切私にお任せください。責任をもってお届けしますから」

生活状況まで見抜いての丁重な要請に、角田は厚意に甘えて応じることにした。櫻森飛長の生家は、都城でタバコ畑を持つ農家だった。最初、息子の最期の状況を伝えることには躊躇いがあったが、角田のことを、櫻森の両親は温かく迎えてくれた。

せっかく九州まで来たのだからと、角田と鈴村は、ほかの遺族も訪ねることにした。水俣では、崎田清一飛曹の唯一の血縁者である姉と会うことができた。崎田は、小学校の成績が抜群で、先生が、授業料を援助してでも中学校に行かせようとしたほど聡明な少年だった。それでも崎田の姉は、先生の厚意に甘えることなく、北九州の織物工場で働いて、弟の学費を稼いだのだ。

「それで婚期を逃して、旅館で働いています」

と、崎田の姉は微笑んだ。

鹿児島の小原弘上飛曹の家族、熊本の山下憲行一飛曹の母、さらに広島の谷本逸司中尉の母とも会うことができた。谷本中尉は昭和20年5月4日、角田が敵空母への突入を確認している。しかし、遺族に届いた戦死公報の日付が曖昧だったため、谷本の母は、息子がもしや生きているのではと一縷の望みをもち、深夜、道路の靴音が玄関前で止まったように聞こえるたび、「帰ってきたの?」と目を覚ましたという。

この4泊5日の旅を通じ、いまだ癒えない遺族の心情に接したことで、角田は、これは一生懸命にまわらないといけない、と感じた。

「子供たちと相談して、出稼ぎに行った農閑期の金は俺にくれ、遺族をまわってお参りするから、とそれから始まったんです。まだ戦友会の名簿がなかった時代ですから、ご遺族を探すのもなかなか大変でした」

義理堅い鈴村は、フィリピン脱出の行軍のときのように、角田にいつも寄り添い、戦友会にも一緒に出てくれた。

遺族のなかには、息子や兄弟を失い、国を恨んでいる人もいた。同姓の別人に戦死公報が届き、本人の遺族には公報さえ届いていない人もいて、

「今頃になって戦死していたとは、どういうことだ。あなたが責任をとってくれるのか」

と、詰問されたこともある。

「うちの息子は死んだのに、どうしてあなたは生きてるんだ」
「大勢の中からうちの息子を選んだのは誰か、教えてほしい」

と責められたこともしばしばであった。

昭和19年12月15日、特攻隊(第七金剛隊)直掩機として戦死した若林良茂上飛曹の遺族は、本人が飛行機の搭乗員になっていたことさえも知らずにいた。

飛行機の搭乗員を目指すには、親の同意書がいる。母1人子1人の若林は、飛行機乗りへの夢を母親に反対され、徴兵で海軍に入ると同意書を自分でつくり、部内選抜の丙種予科練に合格した。休暇で帰省したときも、母に手紙を書くときも、飛行機の話は一言も出さず、飛行服姿の写真も送ってこなかった。角田が群馬県に暮らす若林の母を訪ねると、商店の裏の6畳ほどの倉庫のような建物に、若林の母は1人で暮らしていた。うす暗い部屋には仏壇代わりのリンゴ箱が2つ置かれ、その上に息子の位牌と、白い事業服姿の写真が飾ってあったという。

そんな遺族の深い悲しみに触れるたび、角田の心も痛んだ。角田には、

「国のため、家族のため、一生懸命戦ったのですから誉めてあげてください」

としか言えなかった。

特攻隊員の死は決して徒死ではない

角田の慰霊の旅は北海道を除く日本全国、また硫黄島、台湾、フィリピン、パプアニューギニア、ソロモン諸島にまでおよぶ。

遺族にとって、息子や兄弟を戦争で亡くした悲しみは、過ぎ去った昔のことではなく、生々しい「いま」である。そんな遺族の姿に接していると、

「昨日の敵は今日の友」

とばかりにアメリカ人と仲直りするなどというのは、角田には考えられないことであった。昭和50年代、元零戦搭乗員の集いに、「エース」と称する元米軍パイロットが参加したさいにも、

「エースだと? 貴様、俺の仲間を何人殺したんだ。何をのこのこ日本に来たんだ」

と詰め寄り、周囲をはらはらさせたりしている。

昭和52(1977)年8月、特攻隊慰霊祭のため、関係者とともにフィリピンへ渡ったとき、角田は、80歳になった櫻森飛長の父親に、息子の最期の模様を、その終焉の地であるレイテ湾を望みながら伝えることができた。

「この湾に、隙間がないほど敵の艦艇が集まっていました」

角田は言った。

「長官か参謀を零戦に乗せて、その様子を見せたかった。見た上で、命令してほしかった」

あの戦いの日、聯合軍の艦船でいっぱいだった広いレイテ湾には、1隻の船も、また1機の飛行機の姿も見えず、ただ真青に晴れた空と海が広がっていた。

「櫻森機が、火の玉になって空母『フランクリン』に命中するところまでを御父様に報告できて、やっと『戦果確認機』としての使命を果たすことができたと思いました」

と、角田は述懐する。

角田の慰霊行脚はなおも続いた。その間、元海軍報道班員で毎日新聞社の新名丈夫から回想記の執筆を勧められたことをきっかけに、6年がかりで書き上げた手記を、平成元(1989)年、『修羅の翼』(今日の話題社、現在は光人社NF文庫)として上梓している。この本は、ゴーストライターや口述筆記ではない、正真正銘、本人が自分の言葉で綴った一冊として、資料的にも高く評価されている。

平成2(1990)年、脳梗塞をわずらい、杖の手離せない体になったが、はじめ1本だった杖が2本になっても、慰霊行脚はあきらめなかった。


平成16年5月、「海軍ラバウル方面会」の慰霊祭にて。前列右から3人めが角田和男氏、左から2人めは、フィリピン、台湾で「特攻隊生みの親」大西瀧治郎中将の副官をつとめた門司親徳氏 ©現代ビジネス


平成16年5月、靖国神社の境内を歩く角田和男氏(右)と門司親徳氏(左) ©現代ビジネス

平成15(2003)年1月30日、鈴村善一が、循環器系の難病のため、76歳で亡くなった。このときも角田は、13名の元二〇五空特攻隊員とともに、名古屋で営まれた通夜、告別式に泊まりがけで参列している。

「いまもよく夢に見ます。死んだ連中が出てきて、眠っていてもこれは夢だとわかるから、はじめのうちは、『お前たち、また出てきやがったか!早く成仏しろ』と追い払うように無理やり目を覚ませたものですが、歳月が経てば経つほど、夢なら覚めないでほしい、もっとゆっくり会っていたいと思うようになりました。でも、そう思えば思うほど、夢ははかなくすぐに目が覚めてしまうんです」

90歳を超えて歩行がさらに困難になり、外出が意のごとくならなくなったあとも、角田は自宅で、亡き戦友たちを静かに弔い続けた。

朝、起きると、戦友たちの遺影のアルバムを広げて般若心経を唱える。日中は、客がなければ物音ひとつ聴こえない自室で物思いに耽り、夕食のあとは夜11時過ぎまで起きて本を読む。ベッドに入ると手を合わせ、眠りに落ちる前に自分の関係した部隊の戦没者177名全員の氏名を「南無阿弥陀仏」とともに唱える。


自宅の畑で、自ら丹精込めてつくったスイカを小さな子供に手渡す角田氏。NHKの取材クルーが入っていて、このシーンは角田氏歿後の2013年、BSスペシャル「零戦~搭乗員たちが見つめた太平洋戦争~」のラストに放送された) ©現代ビジネス

時おり、『修羅の翼』を読んで話を聞きにくる客がいると、角田は不自由な体を押して1人1人に丁寧に応対し、ときに涙を浮かべながら戦時中を振り返った。

角田がふたたび脳梗塞で倒れ、入院したのは、平成24(2012)年秋のことである。平成25年2月14日、歿。

「特攻隊員の死はけっして徒死になどではなく、日本に平和をもたらすための尊い犠牲であったと思いたい。でも、親御さんたちの、子を想う姿を見ていると、たとえ平和のためであっても、二度と戦争をしてはいけない、『遺族』をつくってはいけないと思います」

最後に会ったとき、「特攻」を振り返って角田は言った。この言葉が、私にとっては角田の遺言になった。

戦後76年。いまも、角田とともに戦った元零戦搭乗員や、角田が最期を見届けた戦没者の遺族の何人かは存命である。その人たちにとっても、生ある限り「戦争」は終わらないのだろう。