【満州文化物語(20)】 李香蘭主演映画の舞台ハルビン

産経ニュース 2016.3.27


李香蘭主演の映画『私の鶯(うぐいす)』(昭和18=1943年、東宝・満映、大佛(おさらぎ)次郎原作、島津保次郎監督)は不思議な作品である。

舞台は、満州・ハルビン。実の父親と生き別れになった日本人の少女(李香蘭)が、ロシア革命(1917年)から逃れてきた元ロシア帝室劇場歌手に育てられるというストーリー。セリフは、基本的にロシア語(日本語字幕)だ。

見どころは、異国情緒満載のハルビンの様子だろう。スンガリー(松花江)をゆく外輪船、そびえ立つロシア正教会の尖塔(せんとう)、きらびやかなドレスで着飾って劇場へ行くロシア婦人…。映画には本物の白系ロシア人(革命で社会主義化したソ連を嫌って国を出たロシア人)の一流歌手が出演し、演奏は名門のハルビン交響楽団が担当している。

キャスト・スタッフとも錚々(そうそう)たる顔ぶれによる音楽映画の大作だが、内容を含めて、およそ戦時下には似つかわしくない。なぜこの映画が作られたのか?

当時、内地(日本国内)では、国家統制の強化を目的とした映画法(昭和14年)以降、軍国色一辺倒の風潮を余儀なくされていた。『私の鶯』の製作サイドの狙いはそれに抗(あらが)う娯楽作品を作ることにあり、「ならば満州で…」と、もくろんだらしい。

だが、戦況はますます厳しく結局、内地での公開は中止されてしまう。フィルムも散逸し、長く「幻の映画」となっていた。

40年ぶりの再上映会

『私の鶯』の製作年(18年)に哈爾濱(ハルビン)学院(24期生・当時、満州国国立大学)に入学した麻田(あさだ)平蔵(91)=恵雅堂出版会長=は同年秋、ハルビンで行われたロケを見ている。

「同期生の中には、『李香蘭を鉄道倶楽部で見かけて持っていた本にサインを貰った』なんて自慢していた連中もいましたね。完成後、ハルビンの映画館で見た記憶があります。あれだけロシアの芸術家を総動員して作ったので、恐らくハルビンだけでも公開せざるを得なかったのでしょう」

麻田が映画を見たのはハルビン一の繁華街・キタイスカヤ通りの入り口にあった「平安座」。劇場も兼ねており、世界的なプリマドンナ、三浦環(たまき)がハルビンへ来たときは平安座のステージに立った。公開された『私の鶯』はハルビン在住の日本人に好評を持って受け入れられたという。

それから約40年…。『私の鶯』のフィルムが関西で(その後東宝でも)見つかる。知人から聞いた麻田は再上映に奔走。昭和61、62年に東京・新宿のホールで開かれた上映会は立ち見が出る盛況だった。「幻の映画」は、やっと日本で日の目を見ることができたのである。

欧亜をつなぐ「扉」

ハルビンは19世紀後半、帝政ロシアが満州進出の拠点として造り始めた街である。シベリア鉄道と満州里でつなぐ東清(東支)鉄道(経営権は昭和10年に満州国へ譲渡)を南へ伸ばし、ハルビンから長春(後の新京)、奉天、大連へと到達。長春-大連間は日露戦争後、日本に経営権が譲渡され、満鉄線となった。

その地政学ポジションからハルビンは「欧亜をつなぐ扉」となってゆく。

《ハルビン発パリ行きの列車や。あれに乗ってヨーロッパへ行くのが俺の夢なんや》(加藤淑子(としこ)著「ハルビンの詩(うた)がきこえる」)

終生、ハルビンへの郷愁を抱き続けた加藤幸四郎(こうしろう、平成4年死去)の言葉だ。幸四郎は昭和4年、京都二中(旧制)から哈爾濱学院(当時は日露協会学校・10期生)へ入学。満鉄・白系露人係に職を得て、かつてロシア人が創設し、特務機関などのテコ入れで再建されたハルビン響の運営にも携わった。歌手、加藤登紀子の父である。

ハルビンには『私の鶯』に出てくるような白系ロシア人のほか、シベリア鉄道などでナチス・ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人(系)も多かった。

16歳でハルビン響のバイオリストになったヘルムート・シュテルン(後にベルリン・フィル副コンサートマスター)は、そのひとり。ベルリンからハルビンへ逃れ、「名門オケ」にやっとポストを見つけた。

満州国の五族(日、満、漢、鮮、蒙)と白系ロシア人とユダヤ人。主たる「七族」の共存と対立の中で、各国の政治家、軍人、芸術家、スパイが交錯し、欧の食材に亜のスパイスをふりかけたような独特の文化と生活が育まれていった。

オトポール事件の背景

満州とユダヤ人の関係は深くて複雑だ。ハルビンはその舞台の中心である。

リトアニア駐在外交官、杉原千畝(ちうね)による“命のビザ”よりも前の昭和13(1938)年3月、「オトポール事件」が起きた。

その規模や状況については諸説あるが、ヨーロッパから逃げてきたユダヤ人がソ満国境のオトポール駅で行き場を失い立ち往生。ハルビンのユダヤ人協会から救援要請を受けたハルビン特務機関長の樋口季一郎(きいちろう、陸軍中将、1888~1970)は渋る満州国政府らを説得して、ユダヤ人を救う。日本と関係を深めていたドイツからの猛抗議も「人道的措置」をタテに突っぱねた。

満州駐在のJTB社員にもユダヤ人救出に関わった人たちがいる。キップの手配や逃走資金を運んだ人もいた。

当時、ユダヤ人コミュニティーは“安住の地”として満州を想定し、ハルビンでは3度にわたり極東ユダヤ人会議が開催されている。日本の一部にも、ユダヤ人を受け入れることでアメリカなどのユダヤ資本導入や対米戦争忌避につなげる「青写真」を描く勢力があったが、結局、日本は日独伊三国同盟(1940年)に舵(かじ)を切り、構想は霧散してしまう。

ハルビン一の格式を誇るユダヤ資本の「モデルン」ホテルでは当時、日本とユダヤをつなぐ多くの会合が開かれている。併設された劇場は、ハルビンを訪れた世界のアーティストがけんを競ったステージだ。混沌の中にきらびやかな花を咲かせたハルビンを象徴するその名前は『私の鶯』にも登場している。

敬称略

(文化部編集委員 喜多由浩)