ハチ公のおはなし
10日間没頭してしまっていた英語ブログ。 何について書いていたかというと・・・
ハチ 公! です。
ケイトーが虹の橋に旅立ってから来月で満6年になるんですが、ケイトーが逝ってしまう前の週、私はムスメとストラウドに、
映画 『HACHI 約束の犬』 (2009年)を見に行っていたんですよね・・・ まさかその翌週ケイトーとお別れすることになるなど
夢にも思わず・・・ そんな風に思いを巡らせていたらハチ公についてもっと知りたくなり、いろいろ調べてみたら
知らなかったことがたくさん出てきたので、そうだ、英語ブログを始めたんなら、世界に誇れるハチ公のことを
書こうじゃないか!と思い立ったんです。
せっかくなので今回から3回に分けて、こっちのブログでもハチ公について書きます。 (文中敬称略。)
皆さんもうご存知かもしれませんが、自分なりに新たに知ったことを(老後の楽しみに?)まとめておきたいので、お目汚しご容赦ください。
私の情報源はインターネットですから正しくないものも含まれているでしょうが、できるだけ信憑性の高そうな、複数の源から
得た情報を選んでいます。 それでも誤りがありましたら、・・・申し訳ありません。 と、先にお詫びしておきます。
* * * * * * * * * *
ハチは関東大震災からほんの2ヶ月後だった1923年11月10日に、大舘市(現在)で誕生。 東京大学(現在)の
上野英三郎博士(1872−1925)に飼われることになり、生後2ヶ月だった1924年1月14日、米俵に入れられて大舘を
出発。 20時間の列車の旅を経て上野駅に到着した。 博士の代理でハチを引き取りにきたのは、のちに博士の没後ハチの
飼主になる、上野邸の植木職人をしていた小林菊三郎。 大の犬好きの上野博士宅にはジョンとS(エス)という2頭の犬が
すでにおり、特にジョンが、幼いハチの面倒をよく見たという。
上野家の書生・尾関才助、ジョン、ハチ / 上野英三郎博士 / ハチとS
(書生の尾関才助は博士の没後郷里に帰り、その後若くして亡くなったそうだ。)
上野博士(左から3人目) / “新年宴で宮中に召された” ため正装した上野博士、1923年(大正12年)1月5日
(宮中に召されたって、まさか皇居・・・? )
博士はハチの前にも秋田犬を4頭飼ったが、いずれも生後1年に達する前に死んでしまったため、博士はハチの養育には
ことのほか気を遣った。 幼いハチはよくお腹をこわしたり熱を出したりしたが、すると博士はハチを自分の寝床に
運び込み、ときには寝ずの看病をしたという。 おかげでハチはすくすくと無事成長。
その頃の渋谷駅周辺
やがてハチはジョン、Sとともに博士の送り迎えをするようになる。 行先は東大の駒場キャンパスまで、あるいは渋谷駅まで。
農業工学の第一人者であった博士は農林省や関連施設に出向くことも多く、その際は自宅から最寄の渋谷駅を使ったのである。
上野邸は当時あった大向小学校に隣接しており、博士はジョン、S、ハチとともに渋谷駅まで歩くと、別れるとき
3頭に話しかけ、撫で、ビスケットを与え、服が汚れるのも構わず飛びつかせたという。 犬たちは朝博士を見送ると帰宅し、
夕方博士が戻る時間になるとまた駅まで歩いて博士を改札外で出迎えた。
大向小学校 / 博士の家から渋谷駅までのルート / 学校裏手の高台にあったという上野邸 (現在は跡形もなし)
しかしハチが上野邸に来てから1年4ヶ月後の1925年(大正14年)5月21日に、上野英三郎博士急逝。
(享年53歳、今の私よりお若かった。 上野博士は犬にだけでなく人に対しても思いやり深いすばらしい人格者だったそうである。
どうしてそんな方に限って、若くして亡くなられるのだろう・・・。)
その後のハチについてはこちら ↓ に詳しいです。
最愛の御主人様・上野博士に逝かれたハチは、3日間何も食べず、上野博士の寝具がしまわれた物置に入り込み、どうしても出て
来なかったそうだ。 さらに初七日の夜、御通夜を営んでいたときのこと。 悲しげに庭を歩いていたハチは突然縁側のガラス戸を
押し開け、座敷に上がって棺を安置した台の下にもぐり込んで腹ばいになり、一晩そこから動かなかった。
上野博士と妻の八重子は、上野の本家に反対されたものか正式に結婚はしておらず、事実婚関係だった。
二人の間に実子はなく、養女のつる子、その夫、男子の赤ん坊は上野邸で同居していた。
博士の死後、八重子もつる子一家も上野邸を出ねばならず、犬達は親類に託された。 しかし若く元気なハチは
先々でトラブルとなり、日本橋の親類宅から浅草の親類宅に移るようだった。 借家暮らしを経て世田谷に自宅を構えた八重子に
引き取られたあとも5km離れた渋谷駅に通うことをやめなかったため、八重子はハチを、渋谷駅近くに住む上野邸の植木職人だった
小林菊三郎に託した。 上野博士の死から約2年が経っていた頃のことだった。
小林菊三郎とハチ
小林は職人として駆け出しの頃上野博士に世話になった恩を忘れず、ハチを大切に世話したという。
ある情報源によると、8人の子供を抱える小林一家がコロッケを食べているとき、ハチには牛肉が与えられたそうだ。 また同居していた
菊次郎の弟の友吉が、忙しい菊三郎に代わってハチを散歩に連れ出すなどよく面倒をみた。 小林家の裏手には子供のない夫婦が
肉屋を営んでおり、その夫婦もハチを我が子のようにかわいがってくれたという。 近所の子供のお供をして銭湯に通う
ハチの姿がよく見られるようになった。
それでもハチの渋谷駅行脚は止まらず、途上で元上野邸をのぞいたハチは、上野博士を待ちかねるかのように渋谷駅に
日参するのだった。 そうして年月が過ぎていったが、のっそりと大きなハチは事情を知らない人々には疎まれ邪険に扱われた。
駅の小荷物室に入り込んで駅員に叩かれ、子供には顔にいたずら描きをされ、夜になると近くの商店主に商売の邪魔になると
追い払われ、野犬狩りに捕まったこともあった。 野犬狩りに捕まったときは、顔見知りの巡査がハチの身元を確認してくれて
事なきを得た。 ハチはちゃんと登録された飼犬だったにもかかわらず、おとなしいから新しい首輪やハーネスを不届者に
盗まれてしまい、野犬と誤解されてしまうのだ。 それでもハチは、誰に対しても一度も害をなさなかったという。
そんなハチを哀れんだ、日本犬保存会創設者の斎藤 弘吉(1899−1964)。 ハチの背景を知って感動し、小林にハチの
世話をさせてくれるよう頼んだが、小林は 「亡き博士はことのほかハチをかわいがり、ハチの亡骸は自分と同じ墓にとの遺言を
残されるほどでしたから、とてもお渡しするわけには参りません」 とお断り。 そこで斎藤は日本犬保存会の会報にハチについての
文章を二度ほど掲載したが、もっと多くの人にハチの悲しい状況を知ってハチをいたわるようになって欲しいと願い、朝日新聞にも
投稿した。 それが1932年(昭和7年)10月4日付の 『いとしや老犬物語』。 これによりハチの知名度が一気に高まり、
ハチは一躍国民的ヒーローに。 ハチの満9歳の誕生日が翌月に迫っていたときのことだった。 ハチ人気に押されて
ハチには世話係の駅員があてがわれ、老いたハチは夜は駅舎で眠らせてもらえるようになった。
ハチは平和主義の犬でもあったようで、二頭の犬が喧嘩を始めると、その大きな体で割って入って仲裁した。 一方が
しつこく戦いをやめようとしない場合は、自分が喧嘩を肩代わりしてでも引き分けに持ち込む。 そんな男気のある犬だった。
三角形にピンと立った両耳が秋田犬の特徴だが、晩年のハチの左耳は立っていない。 これは野良犬に襲われて噛まれ、
左耳の付け根の軟骨を損傷したためだった。
当時の渋谷駅長・吉川忠一と(下中)
映画 『あるぷす大将』 (1934年) に “出演” (下右)
ハチの銅像の建立については、海外でも報道されたらしい。 右側に立つ女性が上野八重子(下右)。
斎藤はもともとは画家を志し、美術学校に通っていたこともあった。 同じ学校の先輩だったのが、彫刻家の安藤照(1892−1945)。
1933年(昭和8年)6月、立派な日本犬の彫像を作りたいと考えた安藤は、知り合いだった斎藤に相談しハチを推薦された。
ハチを気に入った安藤は同年夏、小林に伴われたハチにアトリエに通ってもらってハチの石膏像を作り、
10月に帝展に出品、好評を得た。 高まる一方のハチ人気に、やがて渋谷駅長の吉川が 「ハチを永遠に覚えていて
もらえるよう、銅像を建てたらどうか」 と提案。 その案は斎藤と日本犬保存会の賛同を得、そうして渋谷駅にハチの銅像が
建立されることになり、計画が発表され、募金活動が始まった。
アトリエに日参していたハチを懐かしむ、安藤照の息子の士(たけし)
寄る年波と夏の蒸し暑さにバテて横になっていることが多かったハチだったが、あるとき来客があり、その
静かな足音が近づいてくるとハチは突然むっくりと起き上がり、両前脚をすくっと伸ばしてきりりと強い、生気に満ちた表情になった。
来客は上野八重子で、大喜びで彼女を迎えたハチは側を離れず、八重子が辞去する際はついて行こうとしたという。
突然別人別犬のように生気溢れる強さを見せたハチに強い感銘を受けた安藤照は、そのイメージを念頭に
ハチの彫像を作り上げた。
上野八重子は 「ハチを棄てて野良犬にした張本人」 などと誤解されることが多い。 ハチを有名にした斎藤弘吉でさえ
上野夫人を犬嫌いと思い込んでいたようだが、実は彼女はハチを手放したくなかった。 でも渋谷駅から離れたがらないハチを見て、
5kmも離れた世田谷の自分の家から渋谷駅に通わせるよりは小林宅に飼われたほうが近いからと、辛くとも
ハチのためを考えてハチを手放したのである。 (という情報を、私は信じます。)
(ハチの別の面が見られて嬉しい上野夫人の回想はこちら: 『上野八重子 − 帝國ノ犬達』)
1934年(昭和9年)2月6日、当時10歳になっていたハチがフィラリア症と腹膜炎の併発により危険な状態に陥る。
ハチの重体を知った国民はハチの回復を祈り、子供たちは 「ハチに薬を買ってやってください」 とお小遣いを送ってきた。
一時は命が危ぶまれたが、幸い奇跡的に持ち直して快方に向かった。
回復したハチと、ハチを診た獣医師の大浦豊(右に立つ男性)
元気になったハチは3月10日、銅像建立の資金集めを目的とする 『ハチ公の夕』 に斎藤、上野未亡人などと共に出席。
3000人が集まる大盛況となった。
1934年(昭和9年)4月21日、渋谷駅でハチの銅像が除幕された。 ハチが生きているうちに公開されたのには理由があった。
「上野家からハチに関するすべてを委託された」 という老人が出現し、 「ハチの木像建立に向けて資金を集めるため」 渋谷駅長に
署名させた絵葉書を売り始めたのである。 斎藤は老人に接触して銅像計画に合流するよう持ち掛けたが老人が拒否したため
銅像の除幕を急ぎ、それゆえハチの存命中に銅像公開の運びとなった。
自分の銅像を見上げるハチ(下中)
正装したある一家と写真に収まる1934年(昭和9年)のハチ / 1934年12月30日撮影の、ハチの生前最後の写真と思われるもの
(上右写真は写真に写っている赤ん坊だった遠藤トヨ子が、渋谷区の白根記念渋谷区郷土博物館・文学館に寄贈したもの。
知り合いの外国人宣教師が撮ったものだそうだ。 なるほど、だから昭和でなく西暦で撮影年が書き込まれているのか。)
ハチは1934年12月から1935年1月にかけて目に見えて弱まり衰えていった。 2月に入ると食欲が戻り体重も増えてきたので周囲は
安堵した。 が3月に入ると、普段通りに動き食べるものの、嘔吐が激しくなり体調が悪化。 3月3日か4日からほとんど何も食べなくなり、
一方で嘔吐は激しさを増した。 腹に水が溜まって膨れ、いかにも苦しげな様子だった。 5日には立つのもやっとという状態に。
ハチの死期が迫っていることを悟りつつも、銅像除幕一周年までは何とか・・・と人々は祈った。
3月7日の晩のハチの不思議な行動を、当時渋谷駅長だった吉川忠一はよく覚えている。 よろよろと立ち上がると、ハチは駅の
各部屋を順にまわり始めた。 さらには外に出、今度は駅前に並ぶ十軒余りの商店を、一軒ずつ巡りはじめた。 それだけなら
不思議な光景ではなかったが、最後にハチは、過去に一度も足を踏み入れたことのなかった 『甘栗太郎』 の店に入っていって店の主人を
驚かせた。 午後11時頃のことだった。 駅に戻ったハチは休んだが、深夜になってそれまで入ったことのなかった出札部屋にも
入って皆を驚かせた。 やがて横たわって休んだハチは、午前2時頃までは確かに同じ場所にいた。 すべての駅員が就寝したあと、
ハチは独りで外に出たものと思われる。
ハチのまだ温もりの残る亡骸は、1935年(昭和10年)3月8日午前5時頃に八幡通りで発見された。 そこは線路を渡った駅の
反対側で普段ハチが行かない場所だったので、吉川駅長はハチが 『犬は死ぬとき親しんだ場所を自分の遺骸で汚したがらない』
という言い伝えに従ったのかとの思いに打たれたという。 ハチの最愛の飼主・上野博士の10年目の命日が2ヶ月後に迫り、
ハチ(1923年11月10日−1935年3月8日)自身は11歳と4ヶ月になろうとしていたときだった。
渋谷駅に運び込まれたハチの亡骸に手を合わせる人々 (右から2人目がタクシーで駆けつけた上野八重子)
4日後の1935年(昭和10年)3月12日、渋谷駅でのハチの葬儀
ハチの毛皮は剥製にされ、国立科学博物館に保存されている。
剥製になったハチ (下右の左から4人目がハチを有名にした斎藤弘吉)
ハチの臓器はホルマリン漬けにされて保存され、現在も東京大学農学資料館の上野博士の胸像の背後に展示されている。 ハチの死因は
フィラリア症と長年考えられていたが、近年精密検査され、その結果 「ハチは重度の癌も患っていた」 と2011年に発表された。
上野博士が遺言で希望していたように、火葬にされたハチの遺灰は青山霊園にある博士の墓の傍らにある祠に埋葬され、
その隣には 『忠犬ハチ公の碑』 が立っている。
(上野博士の墓とハチ公の碑への散策ガイドはこちら。)
ハチの一周忌。 悪天候にもかかわらず、多くの人々が渋谷駅に集ってハチを悼んだ。
武器や建設資材にするための金属の不足が深刻になり、1941年(昭和16年)に金属回収令が出されて
偉人の銅像や寺の梵鐘までが金属供出の対象となり、ハチ公像も回収されることになった。
斎藤やその支持者はそれを阻止しようと断固として反対し、同量の銅をどこからか見つけてくるとまで申し出た。
しかしハチ公像は目立つ場所にあるうえ有名すぎたため、妥協案として 「回収して戦争が終わるまで保管する」 ことが
提案され、斎藤らはこれを受け入れた。
1944年(昭和19年)10月12日、 『出陣式』 のあと、ハチ公像は撤去された。
当時の新聞は、これをハチ公の 『誉れの出陣』 と表現した。
「戦争が終わるまでハチ公像を別所に保管する」 というのは、最初から真赤な嘘だったのか。
あるいは戦時中の混乱で連絡に行き違いがあったのか。
いずれにせよ、ハチ公像は10ヶ月後の1945年(昭和20年)8月14日――終戦の前日――溶解され、
機関車の部品になってしまった。
太平洋戦争中の大空襲により、日本の首都東京は焼け野原に。
終戦直後と復興後の東京
1945年(昭和20年)8月15日、日本国民はラジオから流れる天皇の声を初めて聞いた。
空襲により見る影もない焼け野原になった渋谷。
人々の絶望は想像を絶するものだった。
ハチ公像が永遠に失われてしまったというニュースは、それに拍車をかけただけだったろう。
1947年。 渋谷の商店主や斎藤が、ハチ公の新しい銅像を建てることを誓った。
ハチ公像の再制作に、安藤照の息子で自らも彫刻家となっていた安藤士(たけし、1923−)以上の適任者がいただろうか?
新しい銅像建立の際はその呼称を “忠犬ハチ公” から “愛犬ハチ公” と改めようとしたものの、 “愛犬” は定着せず
“忠犬” のまま落ち着いたようである。
安藤士は彫刻家として認知され始めたころ徴兵された。 1945年10月、彼は焼失した自宅へと帰還し、家族の運命を知った。
ハチ公像を制作した父親の照(1892−1945)は、1945年(昭和20年)5月25日に士の妹とともに空襲で死亡していた。
「近所の方が教えてくれました。 空襲で防空壕に逃げ、そこで焼死したと。」
士自身は宮崎県に配置されていたため難を逃れた。 偶然士に面会に行っていた母親も無事だった。
腹を空かせ、ぼろをまとい、履く靴すらなく、明日の食べものの保証もなかったが、「生きてさえいれば、何とかなる。」 そう思った。
庭を掘り返したら埋めておいた粘土が出て来たので、創作活動を再開した。
斎藤弘吉にハチの新しい銅像の制作者として指名された士は、天にも昇る気持ちだった。
「ハチ、お前を作ってやるぞ!」
父親が作った最初の像の型も資料も記録も焼失していたが、士の記憶にはハチの姿が鮮やかに残っていたので、
目をつぶっていても作れる気がした。 士はハチをよく覚えていた。 ハチは優しい目をした大きな立派な日本犬だった。
賢くおとなしく人懐こく、それでいて圧倒的な存在感があった。 人間が大好きで、信用していたと士は信じる。
大きな犬だったにもかかわらずおとなしく、子供にも優しく、怖いところなど皆無だった。
ハチが父親・照のアトリエに通っていた夏、士は10歳だった。 照はハチに好きなようにさせ、年老いて
夏の蒸し暑さにも閉口していたらしいハチは横になっていることが多かった。
父親が確立させた立派な秋田犬としてのハチの姿に、士は人間と動物の間の真実の愛情と信頼を、
その繊細な表情と遠くを見つめるような瞳に表現した。 また父親の像がハチのりりしさ・力強さに焦点を合わせて
いたのに対し、士はハチの可愛らしさ・親しみやすさに重きをおいた。
士が記憶と写真だけを頼りに作った石膏像は斎藤を満足させたが、ひとつ問題があった。 十分な量の銅が手に入らなかったのだ。
新しい像の除幕は、終戦から3周年となる1948年8月15日とすでに決定されていた。
焦った士は、父親が作った女性ダンサーをモデルにした像 『大空に』 が焼けた家の下敷きになっていることを思い出した。
父親が元大名家のため製作したもので、戦争が始まると金属回収を怖れた持主が、父親の元に送り返してきていたのだ。
両腕を失った状態のその像を見つけた士は思った。
(親父、これをもらうぞ。 無駄にはしない。 この像はハチ公になって、永遠に人々に愛されるんだ!)
重さ100kgを超える像をリヤカーに載せ、3時間かけて鋳物屋に運んだ。
「戦前の良質な銅だ」 と言われたとき、疲れが吹っ飛んだ。
安藤士に関するリンク:
歴史秘話ヒストリア きっと会える!大好きな人に 〜渋谷とハチ公 真実の物語〜
読売新聞 ハチ公を探して 第2部 《1》 《2》 《3》 《4》 《5》
新しいハチ公像は、1948年8月15日に除幕された。
直後の8月30日(9月5日という情報源も)には、来日していたヘレン・ケラーが渋谷駅に来、ハチ公像に触れたという。
彼女はまた、安藤士の顔にも触れたそうだ。
やがて開発のため、ハチ公像近くのビルが撤去された。
1952年(昭和27年)。 左下にハチ公像。 戦後わずか7年でここまで復興!
渋谷駅上空をケーブルカーが走っていたことがあったとは・・・ 乗ってみたかったなぁ〜!!
渋谷駅周辺の開発のため、ハチ公像は10回以上も移動されたという。 そうしながらずっと、渋谷の町を見守ってきた。
ハチ公像の前に噴水があったこともあったんだなぁ。
投票促進や火の用心に一役買うハチ公。
最初の銅像建立から50周年にあたる1984年4月8日のハチ公記念日には、東京大学の有志によって
上野博士の胸像との再会が実現。
1985年3月8日には、渋谷駅開設100周年とハチ公の50年目の命日を記念して犬の一日駅長が招かれた。
1989年1月初めには、昭和天皇が崩御。
再開発のため平成のはじめに移動され、現在の場所に落ち着いた。
2000年冬
2009年7月7日、 『HACHI 約束の犬』 に出演したリチャード・ギアがハチ公像に対面。
像を制作した安藤士も招かれた。
2012年5月には、同映画の舞台となった架空の駅として撮影に使われたウーンソケット停車場 (Woonsocket Depot)の
前の広場に、ハチ公像が設置された。 Woonsocketcall.com によると、ハチの像を建てることを思いついたのは市長。
地元のビーコン・チャーター美術学校 (Beacon Charter High School for the Arts) の校長がインターネットで
ニュー・ジャージーのアーティストが製作したハチ公像を見つけ、賛同を得て学校の予算でその像を購入し、市に寄贈したものだ。
同市は 『ハチの足跡巡り』 (Hachi Trail) を用意して、ハチのファンの訪問を待っている。
日本一有名な犬だけあって、ハチの銅像は渋谷以外にもある。
ハチの故郷の大館市。 駅前に立つのは、両耳が立った、若く力強いイメージのハチ公像だ。
駅構内にはハチ公神社があって、ハチ公トイレなんてのもあるけれど、その近くには・・・
・・・ハチの生家! それを記した碑と、またまたハチ公像がある。
(これだけではない大館市にあるハチ/秋田犬の像についてはこちらをどうぞ。)
長いこと鶴岡市役所に正体不明のまま保管されていた二代目ハチ公像の試作品は、2006年に制作者・安藤士(たけし)と
59年ぶりに再会。 2012年から毎年10ヶ月間(雛人形が展示される期間をのぞいて)、鶴岡駅構内に展示されている。
ハチを有名にした斎藤弘吉の出身が鶴岡市だったことから、同市にも 『鶴岡ハチ公保存会』 が設立された。
安藤士は鶴岡市の借家でハチ公像を制作。 完成後石膏の試作品は借家に残したそうだ。
(おそらく士のために借家を探し出してきたのが斎藤弘吉だったのでは? そのため東京を離れ、鶴岡市で制作することになったのでは?)
ハチの最愛の飼主・上野英三郎博士の出身地である久居駅(三重県津市)東口には、2012年10月、
並んで立って見つめ合う博士とハチの像が建てられた。 このハチも若々しいイメージ。
(ちなみに上野英三郎博士の遺骨は分骨され、三重県津市久居の法尊寺にもお墓があるそうだ。 こちらの37ページ目に記載あり。)
2014年4月には、初代ハチ公像のひな形が存在していたことが判明。
渋谷駅前「忠犬ハチ公像」設置から80年―初代ひな形の存在判明 − シブヤ経済新聞
戦災逃れた初代ハチ公 設置から80年、原型見つかる − 47NEWS
持主は2014年4月の時点で御歳99歳(!)の白川セキで、彼女は空襲で照・士の妹とともに亡くなった、安藤家住み込みの
加茂なみの友人だった。 「照さんは苦学の身だった母に目をかけてくれ、遊びに行った際に原型を託したようだ」 と語るのは、高齢の
白川セキに代わって像を保管する長女の谷内真理子(66歳・下中)。 終戦間際、白川セキは石膏像を東京から茨城県古河市の実家に
移したため、像は空襲に遭わずに済んだらしい。 その後も引越す度に厳重に包装して運ばれた。
「一番安全だからと床の間に飾り、照さんの署名を指差しながら 『初代ハチ公の原型なのよ』 と話していた」 と、娘の谷内真理子。
(ニュース記事が将来アクセスできなくなった場合に備え、内容をリピートしております。 ご了承くださいませ。)
そして2015年3月8日、ハチの80年目の命日に、東大農学部に新たな銅像がお目見え!
上野博士をお出迎えするハチの像。 上野博士の存命中は、毎日のように繰り返された光景だったろう。
鞄を足元に置いて、優しくハチを見つめる上野博士。
相対するハチは喜びに満ちあふれていて、見ているこっちまで嬉しくなる。
両耳がピンと立ち尻尾もくるりと巻いた、若々しいハチだ。
(東大農学部の上野博士とハチ公像散策ガイドはこちら。)
その日、除幕式の騒ぎが収まって辺りが静かになってから、上野博士の孫・上野一人がハチ公ファンであるイタリアの少女・
ステファニーからの手紙を像にそっと載せた。
(“上野博士の孫が三重県にいることを知り、英語のメールを三重県多文化共生課に送って橋渡しを依頼した” とは、なかなかの行動力。
彼女の来日がいつの日か実現して、ハチ公像と対面できますように!)
上野博士には実子がなく、事実婚だった八重子夫人・養女のつる子一家3人と同居していたそうだが、そして博士の死後は
八重子夫人もつる子一家も上野邸を出なければならなかったそうだが、上野一人がつる子の子供で津市在住だとしたら、一人は
上野博士の死後、上野家に容認され受け入れられたのだろう。 上野一人は三重県議会の副議長を務めたことがあるそうだ。
ハチ公像について、最後にもうひとつ。
安藤士が大切に保管している、ハチの小さな臥像がある。 父親の安藤照が1933年(昭和8年)に10体ほど制作し、最も出来ばえの
良い3体が、1934年(昭和9年)に皇室に献上された。 ひとつを照が保存し、残りは知人らに贈られた。 照が保存していたものは
戦後に士が、焼け落ちた家の跡で発見した。 空襲で焼けたため前脚が溶けてしまっている。
このハチ公臥像の損傷していないものが、茨城県古河市に存在する。 (詳しくはこちら。) ハチ公臥像のひとつをもらったのが、
前出の安藤家の住み込み家政婦・加茂なみで、彼女自身は安藤照と照の娘とともに空襲で亡くなったが、彼女の臥像は
古河の実家にあったため無傷で済んだらしい。
さらには安藤照作でないもうひとつの臥像も存在するという、興味深い記事もあった。
渋谷のハチ公像には、ときに相棒がいたらしい。 ハチの群像を作った人、根性ある!
両前脚の間にすっぽり納まった、かわいい相棒たち。
柔道や 「もっと野菜を食べましょう」 のプロモーション活動に寄与したこともあったらしい。
2014年にはバレンタイン・デーに合わせて作られた等身大の 「チョコ」 ハチ公像まで登場。
戦後から半世紀以上も、渋谷の、東京の、そして日本のドラマチックな変化を見つめてきたハチ公像。
今や渋谷と切っても切れない絆で結ばれたハチ公像は、将来渋谷がどれほど変わろうとどれほど発展しようと、
いつだって居場所を用意してもらえることだろう。 これからもずっと、大切な人同士が会うのを助け続けることだろう。
そしてそれは、制作者にとっては彫刻家冥利に尽きることに違いない。
「皆さんと親しみがもてる高さでよかった。 一般的には彫像は少し離れて鑑賞するものでしょうが、ハチ公像は
皆さんに撫で、かわいがっていただきたいのです。」 と、安藤士(1923−)。
(初代ハチ公像は162cmあり、しかも180cmの台座の上に座っていたって・・・本当!? )
長年多くの人々に触れられてきたため、ハチの鼻と両前脚はもはやでこぼこしておらず、滑らかでぴかぴかに光っている。
しかし士はこれを喜ぶ。 「ハチが愛されてきた証拠ですから。 ハチにはこれから先も、皆さんに容易に
会いにきてもらえる場所にいて欲しいです。 ビルの中とかそういったところではなく。」
士は何度もハチの像制作を依頼されたが、すべて断ってきた。
「私にとって、ハチは渋谷駅にいるからハチなんです。 他所にハチを作る気にはなれません。」
2007年のエイプリル・フールには、『ジャパン・タイムス』紙が “渋谷の 『忠犬ハチ公』 消える” という記事を
ジョークで掲載したそうだけど・・・ 冗談キツイって〜!
渋谷駅周辺ではまたまた整備事業が進行中で、現在は東側を整備中。 ハチ公広場のある西側の整備は2020年の東京オリンピック
後に始まり、2026〜2027年頃に終わる予定とのこと。 西側の整備が始まれば、ハチ公像はまた移転しなければならない。
ハチのふるさと大館市がハチ公像の “里帰り” に大乗り気で渋谷区に非公式にラブコールを送っているそうだけれど・・・・・
私はそれには反対です。 一時的にとはいえハチ公像のない渋谷駅なんて、渋谷駅じゃないから。 渋谷といえばハチ公で、ハチ公と
いえば渋谷だから。 それにハチ公はもはや、日本人だけの宝じゃない。 ハチ公との対面を夢見てはるばる外国から来てくれた人が、
渋谷にハチ公がいないと知ったらどんなにガッカリすることか・・・・・ 「渋谷だからハチ公なんです」 安藤士さんの仰る通り。
ハチ公像だって、ずっと渋谷に居続けたいのでは? 大館市には申し訳ないけれど。 大館市に恨みがあるわけでもないけれど。
* * * * * * * * * *
東京都生まれの東京都育ちとはいえ、私の実家はずずーっと西に引込んだ片田舎にありまして。 もともと賑やかで混雑した
場所は嫌いだったし、都心でOLをしていた20代の頃は遠距離通勤だったので週末まで都心に出る気になれず。
銀座も新宿も渋谷も無縁のままイギリスに落ち着いてしまったので、私のハチ公との初対面は、東京都民としては
と〜ても遅いものになりました。 ムスメとムスメの友達と私の3人で東京観光に行った2013年10月にようやくそれは
実現し、私は51歳になっていました。
暗くなってからハチ公像に着いたら、外国人女性が愛おしげにハチを見上げていて嬉しかったです。
フラッシュなしと、フラッシュありの撮影。
ハチの像は渋谷駅の北西側にあるハチ公広場で、駅=ハチ公口の方を見つめて座っていました。
ネットで見つけた航空写真です。 ハチが上野博士を待っていた頃の渋谷駅と比較すると、まるで未来都市・・・
あ、実際未来都市か。
私のように東京に不慣れな方のため、英語ブログ用に作った地図を貼っておきます。
昭和30年(1955年)のハチ公口周辺と、
現在の同じ場所。
( 『写真展 東京の半世紀』 とても興味深いです。)
現在だったら、『忠犬ハチ公』 は生まれ得ないですね。 犬が単独でうろついていたら、すぐさま保護されますから。
大衆の安全のためもあるけれど、まずは犬自身の安全のために。 車が多くて危ないですもん。
大型犬がうろついていられた頃の渋谷駅。 写真でしか見たことないのに、ものすごく郷愁を感じます。
タイムスリップしてその頃の東京を歩けたらいいのになぁ。
そんなことも、ハチ公が愛され続ける理由のひとつかもしれません。
今年のハチ公記念日= 4月8日は3日後。 この記事がそれまでに完結できてよかったぁ。
4月8日はハチが生まれた日でも死んだ日でも、上野博士の命日でも、初代/2代目のハチ公像が建立された日でもありません。
どうやら桜のシーズンに合わせて設定されたようです。 でもこの日って、ハチの命日3月8日と上野博士の命日5月21日の
ほぼ半ばに位置しているから、なかなかいい選択では?
いつか、ハチ公記念日に渋谷を訪れられますように!
さて今さら何ですが、皆さん 『HACHI 約束の犬』 は見ましたか?
最初は (日本の話なのになぜハリウッドでリメイクするのよ!?) と反発を覚えましたが、実際見てみたら
すごくよく出来ていて大満足しました。 時代も舞台も設定が変えられているけれど、全然気になりません。
動物/人間のどの俳優も、すごくよかったです。
『ハチ公物語』 は時代考証がちゃんとしていて、見ていて郷愁を搔き立てられました。
こっちの動物/人間俳優さんたちも、とてもよかったです。
以前どこかで 「仲代達矢が犬とからむシーンは愛情が感じられず信憑性に欠けた」 なんていう感想を読んだ覚えが
ありましたが、全然そんなことなかったです。 “先生” がハチと一緒にお風呂に入るシーンには思わず微笑んじゃいました。
(『ハチ公物語』 ラスト11分は、こちらで視聴可。 いつまで見られるかわかりませんが。)
ハチについて書くことにして、そのためあれこれ調べて、本当に良かったです。 知らなかったことがたくさんわかりました。
一番の収穫は、ハチが一度も野良犬だったことはなかったと知ったことです。 それどころか、ハチは幸せな犬でした。
上野夫人は夫の急逝後きちんと犬たちのことを親類に頼んでくれたし、自宅ができてからハチを飼おうとしたし、
でもハチのためを思って植木職人の小林さんにハチを託したし。
小林さんは小林さんできちんと責任を持ってハチの世話をしてくれたし。
晩年有名になってからは、皆がハチをいたわり親切にしてくれたし。
ひとつだけひっかかるのが、死後ハチの胃に見つかったという焼鳥の串ですね。 どういういきさつで
ハチが串を数本も呑み込む羽目になったのか・・・ 串は胃袋を損傷してはいなかったそうですが、焼鳥をあげるなら
ちゃんと串を外してからあげてよっ!と思うし、ましてや誰かが悪意をもって故意にしたことでないことを祈ります。
気の毒だったのは、上野夫人ではないでしょうか。
事実婚だったという理由でおそらく私物だけを持って上野邸を出なければならなかったし、
戦争が迫る中、初老の年齢で一人新たに人生を再構築しなければならなかったのですから。
お茶の師範だったそうだから、それで生計を立てたかもしれませんね。
上野夫人に関してその後のことがもっとわかるといいのですが・・・。
ひとたび美談が知れ渡ると、必ずそれを貶めたがる人間が出てきます。 ハチの場合も例外ではなく
いろいろと言う人がいたようですね。 ハチがなぜ渋谷駅に通い続けたか、誰も知りません。 もしかしたらハチ自身も
知らなかったかも。 ハチは自由に生き、自由に行動しました。 ハチが自由に渋谷駅に通い続けたように、
私たちも自由に何を信じるかを選ぶことができます。 でもそんなこと、ハチにとってはどうでもいいこと。
有名になる前のハチに、人々は必ずしも親切ではなかった(過少表現)のは残念なことです。 新聞記事の
前も後も、ハチは同じハチでした。 ある日を境に態度が一変した人々を、ハチはどう感じたでしょうか。
ハチは誰に害をなしていたわけでもないのだから、人々が最初からハチに親切にしてくれていたらと思います。
相手が人間だろうと動物だろうと、別に何の害もなしていないのだったら、お互いに親切でありたいものです。
ハチが天国で上野博士と幸せでありますように・・・・・